令和2年度【2020年度】慶應義塾大学法学部小論文解答例「アジアの近代化」です。
【ある人の例】アジアの近代化(慶應法2020)解答例
【要約】近代以降におけるアジアと西洋との接触によって、アジアは西欧に対して普遍性をもつ優越者として見たため西欧の見方を受け容れざるを得なかった。これによって起きた近代化で、物質世界も精神世界も変容した。しかし、アジア内部では近代化に対する新たな認識が芽生えた。それは近代化とは、それぞれの地域や国文化の中で、独自性や多様性をもって語られるべき社会変革と自己変革の努力であったということである。そうであるとすれば、近代化は普遍性といった単一の物差しで測られるものではもはやなくなったということだ。国際的な相互依存の度合いが高まる中、自分たちとは異なった他の人々の存在を認め、その尊厳を重んじ共存を図っていくのが必要不可欠になっていくという認識が、ますます重要なものになっていくだろう。以上が筆者の議論である。
【主張】私は筆者が述べるように、多文化を尊重する認識は重要であると考える。しかし、本文の元となった講演が行われた1983年から40年経過した2023年の現在もなお、異文化の価値観同士の激突は、頻繁に起きてしまっており限界があるように感じる。
【根拠】具体的な例として、昨年末に開催されたサッカーワールドカップカタール大会での出来事が挙げられる。西欧諸国は LGBTQやフェミニズムの活動が活発であるといわれている。それに対して開催国であるカタールは、イスラム教の国家であり女性の自由が大きく制限されているのが現状だ。そこで多くの選手が参加をボイコットしたり、西洋諸国のナショナルチームがカタールを批判するパフォーマンスをピッチ上で行ったりした。
【反駁】確かに西欧の価値観から見るとこの講義は正しいことに思えるかもしれない。しかし、女性の権利を制限するという行為自体が、イスラム教の伝統的な文化だと考えるとこの行為は、異文化の否定ということになるのではないか。
【展開】これはイスラム教文化に限った話ではない。日本の捕鯨文化やアジアの一部地域での犬食文化なども西洋諸国では軽蔑の対象になっており、激しい批判にさらされている。
【まとめ】このように文化間での価値観の根本的な違いは多くの争いを生み出す原因となっている。そしてここで筆者の述べるように、他文化を尊重する態度で自ら文化とは根本的に異なる文化や価値観を認めたとしたら、それは結果的に自分から否定になってしまうだろう。したがって、文化間同士で真に尊重し合うのは難しく限界があると私は考える。
【添削・アドバイス】アジアの近代化(慶應法2020)
1.カタールの例の説明を明確化
カタールの例は非常に有力ですが、説明がやや一方的に感じられる部分があります。具体的な出来事(選手や国がどのようにボイコットや批判をしたか)を簡潔に補足し、文化的な衝突をより具体的に描写することで説得力が高まります。
例:カタール大会では、西欧諸国の選手やチームが LGBTQ 支援を示す腕章を着用しようとしたが、FIFAの規則や開催国の価値観により制限された。これに対し、西欧諸国からは「自由の侵害」との批判が上がり、一部選手が試合中に抗議のパフォーマンスを行った。このような行為は、西欧の価値観を基準にイスラム文化を否定している側面もある。
2.捕鯨や犬食文化の例の位置づけ
捕鯨や犬食文化については論点として重要ですが、やや唐突に挿入されている印象があります。文脈をつなげて議論全体の流れに組み込むことで、スムーズに読み手を説得できます。
例:このような異文化間の価値観の衝突は、イスラム文化に限った話ではない。例えば、日本の捕鯨文化やアジアの一部地域における犬食文化も、西欧諸国の価値観から見れば「倫理に反する」と批判されている。こうした批判は、文化的伝統を否定する行為にもなり得る。
3.結論部分の強化
結論部分では、「限界がある」という主張がやや抽象的です。限界の理由や、その中で多文化共生にどう取り組むべきかについて具体的に言及すると、主張が一層深まります。
例:このように、文化間の価値観の根本的な違いは、しばしば衝突を引き起こす。そのため、真に多文化を尊重し合うのは理想ではあるが現実的には困難であり、一定の限界がある。しかし、この限界を前提としつつも、異文化間の対話を重ね、共通点を見出していく努力が重要である。
【全体修正案】アジアの近代化(慶應法2020)
近代以降、アジアと西欧の接触は、アジアに西欧的価値観の受容を余儀なくさせ、物質的・精神的な変容をもたらした。しかし、近代化は単一の普遍的な価値観に基づくものではなく、それぞれの地域や国の文化に根ざした独自性と多様性をもって語られるべき社会変革であるとの認識が広がっていった。この議論を踏まえ、筆者は異文化を尊重し共存する姿勢の重要性を説いている。私はこの主張に賛同する一方で、文化間の価値観の違いはしばしば衝突を引き起こし、実際に多文化共生には限界があると考える。
具体例として、昨年開催されたサッカーワールドカップカタール大会での出来事が挙げられる。西欧諸国では LGBTQやフェミニズムの活動が盛んであり、多くの選手がその支持を示すために、虹色の腕章を着用しようとした。しかし、開催国カタールはイスラム教を国教とする国家であり、同性愛を禁忌とし、女性の自由も大きく制限されている。この文化的背景から、FIFAは腕章着用を禁止し、多くの選手や西欧諸国のチームが抗議や批判のパフォーマンスを行った。
確かに、西欧的価値観から見れば、カタールの文化や慣習は「自由の侵害」と映るかもしれない。しかし、この批判はカタールやイスラム教の伝統的な文化そのものを否定する行為にもなり得る。このような文化的衝突は、イスラム圏に限った話ではない。たとえば、日本の捕鯨文化やアジアの一部地域での犬食文化も、西欧諸国の価値観に基づく倫理観から批判の対象となっている。これらの例は、異文化間の価値観の違いがいかに深い溝を生むかを物語っている。
筆者が述べるように、異文化を尊重し共存を図る姿勢は重要である。しかし、自らの文化とは根本的に異なる価値観を受け入れることは、しばしば自己否定につながる可能性がある。そのため、文化間で真に尊重し合うことには現実的な限界があると言わざるを得ない。
多文化共生を理想として掲げること自体は重要であり、そのための努力も不可欠である。しかし、文化的衝突の現実を無視するわけにはいかない。多文化共生の限界を認識したうえで、異文化間の対話を重ね、相互理解を深めるための取り組みがこれまで以上に求められている。
福沢諭吉と異文化理解
※福沢諭吉は、異文化理解の第一人者ではないだろうか。著書「西洋事情」(あの時代において、自らヨーロッパの各国を歴訪し、異文化理解を深め、西洋文化や技術、制度など紹介している著書)からもそう思います。
すごいなと思うのは、西洋文明、近代化を手放しで礼賛する欧化主義者ではなかったという点。西洋の文化を理解しつつも、全てを模倣するのでなく、日本の実情に合わせて取り入れたことでしょう。
異文化理解は、あくまで「理解」であって、押し付けるような相手への「強制」ではないのだと思います。真似たければ真似ればいいし、真似たいところがあれば、自国・自分に合わせて取り入れればいいと思うのです。
押し付け合わず、選択権(文化をどう解釈するか)は、常に相手にあるというスタンスが大事なのかな。意見が違っても、道義的に逸脱していなければ尊重するその態度があれば、国家間レベルにおいても、安寧がおとずれるのだと思います。
福沢諭吉の根幹思想の一つである「独立自尊」の精神が一人ひとりにあることの重要性を課題文を読んで、改めて思ったしだいです。独立自尊であれば、異文化や多様な価値観に寛容な態度でいれると思うのです。独立自尊を持った人同士や環境では、お互いが異質であること自体が嬉しいことなのです(笑)。小躍りするような感覚です。例えば、国の施策に関して全く意見が違っても、これほどまでに国のことを考えている人と議論ができていることが嬉しいのです。だから、相手を理解しようと思えるんですね。自分と同じように、真剣に国のことを考えた結果の意見だから、お互いの意見をする合わせることで、何か新しい意見が生まれるかもという期待もあって。
話はそれましたが、異文化理解、多様な価値観への理解には、「異文化や他者の尊重」が重要であるならば、まずは、「自身への尊重」があってこそだと思うのです。
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